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より道・・・


 
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    子供の勉強部屋について
- 雑誌「まい・すぺいす」29号掲載 




 戦後,核家族化が進むにつれて,若い夫婦も,ある年代になると自分たちの家を建てるようになった。
この時,部屋どりについて,夫婦がまず考えるのは子供の勉強部屋である。そして台所,応接間といった順に考えていくだろう。父親の書斎はとれたらとるといった程度で,これはない家の方が多いようである。実にマイホームの設計は,子供の勉強部屋中心の設計になっているといっても過言ではあるまい。そして,その勉強部屋も個室になっていて,丁寧に鍵付きのドアまで付いているものまであるのが現状であろう。
 少し以前までの住宅は,個人の部屋などないのが大部分である。広い部屋がいくつもあって,誰の部屋とも決っていないのが常識である。もし決った個人の部屋があるとしたら,それは一家の主人のものぐらいで,それも特殊な職業の家庭か,特殊な事情の家庭で,それでも,そう見当たるものではなかったろう。子供たちは,その広い部屋に机かまたは机らしきものを並べて,あるいは,あっちの隅に一人,こっちの隅に一人といった具合に,何の囲いもなく坐って勉強したものである,親は、その広い部屋の中央で昼寝しているといった場面もあっただろう。それでも子供たちは一応学んできた。そして,そんな親たちにも敬意を払っていた。特に父親に対しては,何か分らぬが厳しいものを感じたものである。
 ところで,現代の子供たちは,その鍵のある子供部屋で何をしているのであろうか。一人孤独に打ち勝って勉強している子供もいるだろう。しかし,鍵をかけてしまって,独り悩んでいる子供がいる筈である。悶々としたものを心に抱きながら,登校拒否,家庭内暴力に発展している子供もいるかもしれない。不純異性交遊,シンナー遊び,果ては殺人事件まで起こった例があるではないか。
 親たちは,何故このような対話のない部屋を造ったのだろうか。勉強するのに都合がよいとかいえるのだろうが,考えが甘すぎたと思うのである。
 私は,子供たちもある年代になったら個人の部屋が必要だと思う。それまでは,大きな部屋で皆んなのいる中で勉強させたらどうなのか。そして、子供の部屋も造ってもよいが,ドアは付けないのがよいと思う。ある一定の年代になって,親子の関係も心配ない年頃になってからドアを付けてはどうだろうか。
 ますます対話の少ない現代の親子関係をみて,以上のように思うことである。



 
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   南無お父ちゃん
    - 雑誌「まい・すぺいす」31号掲載 -


赤塚行雄は,「母親の役割の崩壊は,家庭を解体させる重大な要因であるが,権威ある父親の存在は,最も完全に統合された家庭の存在の反映であるとベンソンは言う」と語っている。
 また,岡堂哲雄は,「父親がいない子供の社全的適応に関する研究によれば,離婚によって父親を失った子供の方が,父親と死別した子供よりも,適応上の問題を起こしやすいし,精神発達上もいっそう重大な影響を受けやすい。」といい,また「父親が死別して現にいなくても,母親が子供に父親の姿を理想的に伝えることができれば,子供の成長はいっそう望ましいコースをたどることが期待される」ともいっている。
 私はこの二人の文章を読みながらこう思った,権威ある父親の存在は,子供たちの精神発達上に非常に大切である。だが,現代の多くの家庭の父親はその権威を失ってしまった。
 何故だろうか。戦後の男女の思想の転換,高度経済成長の荒波を受けた家庭における父親の在り方,さらに加えて核家族化など色々あることだろう。
 現在,青少年の非行が問題になっている。校内暴力,家庭内暴力,性非行,シンナー遊び,そしてまた暴走族など,毎日のように報道機関をににぎわせている。
 私は,赤塚氏,岡堂氏のいっていることを考えながら思うのである。
 まさに,この現代の青少年の非行は,現代の父親の権威の喪失に負うところが大半ではないだろうか。
 さて,南無ということばがある。これは梵語の「namas」から来ていることばであるが,広辞苑によれば,仏・菩薩・三宝に帰依・敬礼の意を表すとある。つまり,自分のすべて,一切をおまかせするという意味であり,合掌の気持を意味するものであろう。
 この現代の青少年の非行,そしてその者たちをかかえる家庭の悲劇を思うとき,その家庭の中に,「南無お父ちゃん」という姿があれば,その家庭は救われるのではないか,そう私は思うのである。「南無お父ちゃん」ということ,それは確かにむつかしいことである。何故なら,現代の父親たちに,菩薩たれと要求するのであるからである。菩薩にも色々な姿の菩薩があるであろう。しかし,それがどのような姿のものであれ,不動の愛と善をもったものには変りない。



[著:名和 伸]


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